子どもの頃の腕時計への想い
小さい頃から腕時計への憧れがあった。
90年代に「スプーン」というメタリックな近未来感のあるデザインの時計が流行った。当時1万円前後で販売されていたと記憶している。どうしても欲しかったがお金がなく、近所のホームセンターの時計コーナーから似たデザイン(パチモン)を買って帰った。本物が買えない悔しさと、それでも腕時計を買ったという嬉しさが入り混じった複雑な気持ちだった。
別に何か予定があるわけでもないのに、10:00、11:00、12:00と、きりのいい時間帯になると無駄に時計を見つめていた。
クロノグラフへの憧れ
高校生の頃、近所に高級輸入雑貨店ができた。場違いと思いつつ入ったことがある。ブランドバッグや宝石に並びキラキラと光る腕時計が並べられていた。ブランドの知識など皆無なので、単純に見た目のカッコよさしか理解できない田舎の学生だったが、それでも初めて見たクロノグラフは衝撃的だった。
小さな時計の文字盤の中にさらに小さいな文字盤があるその見た目はカッコいいの一言だった。いつか高級な腕時計を買える大人になりたい、と、男性なら一度は通るであろう憧れを抱いたものだった。
時計は時を知るものではなく、自分を高揚させるもの
「男性が身に着ける数少ないアクセサリー」ともいわれるが、腕時計はやはり目立つアイテムである。
目立つと始まるのが他者との比較。そしてマウントだ。
社会人も長くなり少しお金に余裕が出てから、自分へのご褒美としてそこそこ高級な腕時計を買った。次の日には電車のつり革にわざと左手で握り、車内の窓に映る自分の時計を見ては満足していた。自分以外は誰も見ていないのにね。
高級腕時計を外した
モノで自分を高く見せるマウントごっこは卒業する。
赤の他人に見せびらかして何が得られるのか。もちろん高いものはいいものだ。市場価値が高いことにはちゃんとした理由がある。性能であったりブランドイメージであったり。いいものを買うために懸命に働き、手に入れ満足する。それも素晴らしい。経済も回る。全員win-winである。学生の頃の高級品への憧れが、その後の人生の様々な判断に影響を与えたことも事実だ。
自分基準で生きる
ただ自分は他人との比較選手権からは退会する。「他人がいいな」と思うものを身に着けて満足することはやめる。
自分が良ければそれで良し。シンプルに自分基準で生きることにした。在宅勤務で活躍の機会が制限されていた腕時計だが、時間をかけて丁寧にクリーニングし、クローゼットの奥にそっとしまった。「ありがとう」の言葉を添えて。